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伝承 上伊那経済の牽引者たち

「伊那谷の豊かさ」を支える流通の魂-ニシザワ会長 荒木茂さん(82)【I】 [伊那毎日新聞]

―時代を読んだ多角経営の先駆け―


「伊那谷の豊かさ」を支える流通の魂-ニシザワ会長 荒木茂さん(82)【I】 [伊那毎日新聞]
【荒木茂さん】1924(大正13)年、呉服商大和屋の三男荒木昌平氏と妻ちゃうさんの長男として長野市で生まれる。同年10月、昌平氏が伊那市に西澤書店伊那支店(本社長野市)を開設するため転居。1933(昭和8)年父・昌平氏39歳で病死。  36(昭和11年)旧制伊那中(現、伊那北高校)入学。上田市の大原経理学校入学を経て、40年家業を継ぐ。42年、独立し伊那西沢書店を開設。44(昭和19)年、満州関東軍四五三部隊入隊。敗戦後2年間シベリア抑留。47年復員、ただちに家業の先頭に立つ。1961年から伊那商工会議所議員、以降副会頭(74〜77年)などを歴任。79年伊那ロータリークラブ会長。 00年黄綬褒章(業務に精通)など受賞歴多数。
(2006/3/30掲載)

 伊那市日影に本社を置くニシザワは、中南信エリアを中心にグループ全体で59店舗を展開する。日常生活に欠かせない食品・服飾用品・書籍・文具などを供給するだけでなく、リサイクル書店や外食産業にも進出し、いまや押しも押されぬ伊那谷流通業の中核的存在。中部日本でも有数な総合小売業である。

 創業は、1924(大正13)年、伊那市通り町の小さな書店。その後、創業者故荒木昌平氏急逝や、1949(昭和24)年の大火、県外資本による競合店進出―などの度重なる難局を乗り越え、現在の地歩を築き上げた。

 現在会長の荒木茂さんは、3月30日で82歳。1940(昭和15)年、母が守り続けた書店に18歳で入り、戦争とシベリア抑留の一時期を除いて、常に経営の先頭に立ってきた。

 書店から、デパート(ニシザワデパート)、スーパーマーケット(ニシザワショッパーズ)、ショッピングセンター(ベルシャイン)、さらにディスカウントストア(サンマックス)、リサイクル書店(ブックオフ)、外食産業(「牛角」など)―と、多角化による安定発展の道を歩み続けた荒木さんに、次世代に伝承するべき経営の秘訣と、流通業にかけた思いを聞いた。

【毛賀沢明宏】

「今日だけはありのままに、精一杯」……


「今日だけはありのままに、精一杯」……
ニシザワが展開するショッピングセンター「ベルシャイン」

 「お客さんのニーズを探り、より良い物を、より安くお届けする―これに尽きてしまうんです」

 書店経営から総合小売業のエクセレントカンパニーへ。60数年間に及ぶ経営の秘訣を尋ねると、淡々とこう話した。

 流通業を取り巻く状況は、特に変化が激しい。客のニーズや価値観は次々と移り変わり、提供する商品アイテムは無限に生まれ変わる。競合店が現れては消え、次のライバル店がまた登場する。

 こうした中で、自社をいかにアピールし、地域の客に足を運んでもらうか―これを60余年間考え続けた。

 結論は冒頭の一言。「良いものを安く―なんて、商いでは当り前ですが」と笑う。

 だが、荒木さんが下した決断は、決して「当り前のこと」ではない。

 1949年12月、順調に業績を伸ばしていた西澤書店(ニシザワの前身)は大火で店舗を焼失。多大な買掛金を抱えた。だが、この時単なる再建を目指すのではなく、当時県内に数軒しかなかった百貨店を伊那に開設することを目標に定めた。

 戦後間もない当時はまだ、モノが無い時代。それでも東京のデパートではファッションショーが行われ、それを雑誌で見た伊那の人々は強い憧憬の念を抱いていた。

 「そういう場所をつくれば、お客さんが喜んで足を運んでくれる。そんなチャレンジ精神だったんです」

 遠い未来を見据えていた。

 しかも、再建=発展の途についてから約10年後、60年には、これまた県内にはほとんどなかったセルフサービス形式で食品を売るスーパーマーケット開設を決意した。

 この判断もまた、「当り前」のことではなく、流通業界の若手経営者らでアメリカなどに視察研修に赴き、そこでつかんだ時代感覚をもとにしたものだった。

 当時の日本の小売業は、魚屋・八百屋・果物屋・肉屋などの専門店が別個にあり、主婦の買い物はかなりの時間がかかった。仕入れ・販売量が少ないことから単価も比較的高かった。

 これに対して、大量仕入れ・大量販売の流通スタイルと、レジスターを活用したセルフ方式の販売形態により、客に豊富な品物を安く提供するアメリカのスーパーマーケット方式は、まさに合理的に見えた。そこに「流通業の未来」を感じたのだという。

 スーパーの開設には、その後6年、百貨店の認可を得るには合計約17年を費やした。だが、逆にいえばそれは、荒木さんの発想と決断が、時代の10年、20年先を行くものだったということだ。この後にも、ダイエーとのフランチャイズ契約や、郊外への大型店舗開設などを決断したのも荒木さんだ。

 「我々の時代は厳しい激動の時代であり、私にとっては想い出したくない事の方が多かった。だから、今日だけは、ありのままに、精一杯生きることを心がけるようになったのです」

 「お客さんのニーズをつかみ―」という冒頭の言葉は、こんな思いが込められている。

「多角化」―地域と社員のために


「多角化」―地域と社員のために
活気みなぎる店舗内部

 前述したように、町の書店から出発した同社は、スーパー、ショッピングセンターなど、多様な形態を持った店舗を展開し、経営の多角化を図ってきた。 これについても荒木さんは、「たまたま良い話をいただく機会に恵まれただけです」と笑う。だが「叩けよ、さらば開かれん」のたとえのように、「求めていた」からこそ「機会に恵まれた」のだ。

 実際、「お客さんのニーズの多様化にどうしたら答えることができるか?それを探った結果が現在のニシザワの姿です」とも説明する。

 屋上の観覧車、最上階の展望食堂、ファッションショーや美術展覧会が開かれるデパートは、都会への憧憬を抱く伊那谷の人々の心をとらえた。豊富な食品が並び、手ごろな値段で手に入るスーパーは、昔ながらの農村の食生活から脱却しつつあった家庭のニーズに答えるものだった。

 県外資本の大型ショッピングセンターが進出してきた新たな時代には、自動車で乗り付けることができ、一ヵ所ですべての品物が手に入る大型店舗が求められていた。

 またバブル崩壊後の不況の中で、ディスカウントストアが業界に参入し始めた中では、価格的にこれに対抗する必要も生じた。

 さらに、資源・環境問題がクローズアップされる中では、旧来の古書販売の枠を破った、リサイクル書店も必要だった。

 このように、消費動向の変化を見極めながら、迅速・的確に対応してきたことは明らかだろう。

 だが、単に新しい形態の店舗を増やしてきただけではない。旧来の形態の店舗も、―リニューアルしながら―そのまま維持しているのも同社の特徴だ。

 偶然ではない。地域には様々な家庭があり、一つの家庭でも「今週は節約しよう」とか「今日は少し贅沢をしよう」とかと、ニーズが揺れ動く。それにトータルに応えることが、地域の流通業の務めであり、そうすることで地域の生活は豊かになる。こうした確信があったからこそ、現在の形が出来上がってきたのだ。

 もちろん経営的にも大きなメリットがあった。さまざまな形態の店舗が数多くなれば、会社全体での大量仕入れ・大量販売のスケールメリットが広がる。だが、それ以上に、多角化は、経営の安定化・健全な発展に大きな役割を果たす。

 「従業員のためにも、無鉄砲のことはできない。しかし、同じことをやっていたのでは成長しない。多角化して事業の柱を増やすことは、新しい挑戦をする地盤固めの意味を持ったのです」

 実際、新規事業に乗り出す場合には、その可能性を探るだけでなく、もしもそれが成功しなくても会社全体に影響の出ない範囲内で慎重に進めてきた。だからこそ、事業の拡大が、より高いレベルでの企業経営の安定化・健全化をもたらしたのだという。

「資本の論理」に飲み込まれずに


「資本の論理」に飲み込まれずに
屋上に設置した観覧車が人気を博した西澤デパート

 「一番大変だったのは、やはり、ユニーさんが出店されて以降の10年間でしたね」

 念願だった伊那谷初の百貨店の認可を受けてから5年後の1972(昭和47)年、ユニー(現在のアピタ)が突如として伊那市に進出した。

 広い駐車場を持ち、大きな資本力を背景に豊富な商品を廉価で提供する大型店の出店は、伊那谷の消費者の注目を浴びた。伊那市の消費者の流れは一変した。通り町商店街あげてのイベント開催や、同社独自の催し物などで失地挽回を図ったが、大きな流れは押し止めようがなかった。

 この時に荒木さんは、商品力の強化が重要と考え、流通大手との提携の道を探った。結果として、1974(昭和49)年にダイエーとの間で、商品供給を主とするフランチャイズ契約を結んだが、そこにいたる考察と判断は、地域の流通業のリーダーにふさわしいものだったといえよう。

 提携相手の候補としては、ほかに数社があったが、ダイエー以外の大手は、商品提供の前提として、資本提携が必要だった。長野市、松本市をはじめ県内のいくつかの総合小売業者は、大手との資本提携の道を進んだ。

 だが、荒木さんはこの道を避けた。

 「資本提携をすれば、最初は良くても、早晩、経営権自体を奪われることにつながる」

 伊那谷に生まれ、地域に貢献することを目指してきたのに、経営権を奪われたら、元も子もない。地域が必要とするものを提供できなくなる―こう考えた上での判断だった。自分たちの企業の方向性は自分たちで決める。そんな自主独立の精神は強かった。

 「ライブドアではないが、事業の目的を忘れて資本の論理に飲み込まれたら、一時期どんなに儲かっても、必ず破綻が来るということでしょう」

 資本提携の道を選んだ総合小売店が、その後大手に完全に吸収されてしまった例はいくつもある。それらに比して、ニシザワが、地域流通業に揺るぎない地位を築いているのは、じつは、こんな先見的な判断にも決定されているのだ。

 近年ダイエーは、経営不振から産業再生機構の支援を受けて再建の道を進んでいる。こうした状況下でも、ニシザワは、従来ダイエーを通じて取引きしていたメーカーと直接取引きを開始し、ダイエーとのフランチャイズ契約を終わらせる方向に道を開いた。これもまた商品提供のためのフランチャイズ契約に止めていたことの結果であるともいえよう。

総合的判断力が経営の核心



 「それでもユニーさんとの戦いは大変なもので、結局、当社自身がベルシャインを出店する決断することになったのです」

 ベルシャイン伊那店開店は、ユニー出店から10年後の1982(昭和57)年。当時の伊那市日影地区は人家もまばらな水田地帯で、フランチャイズ契約を結ぶダイエーの関係者でさえも「こんなところに出店して大丈夫か」と心配した。

 一方、通り町の商店主らは、消費者の一層の流出を恐れて、ベルシャイン開店に反対した。「書店以来、ともに街を作ってきた思いもあり、複雑な心境だった」と振り返る。

 だが、車社会の進展の中で、大型駐車場を整備することは不可欠であり、通り町の中でその道を探るのは不可能であるとの判断は変らなかった。

 通り町商店街を守ることも重要だが、伊那市ひいては上伊那全域の消費者に、豊かな商品を提供し続けることもまた、地域への大きな貢献であるとの確信も揺るがなかった。

 荒木さんは言う。

 「資本主義社会には競争原理があります。商品の質・価格・そして宣伝。競争の中で企業は成長する。私利私欲で儲けを求めるのではなく、地域貢献のための競争は、とりもなおさず、お客さんに便利さを提供することになるのです」―と。

 ベルシャイン伊那店の開店は、ニシザワグループのその後の展開のエポックをなした。

 「よく『ミカンはどこから仕入れているか?』とか聞かれますが、僕はそういうことはぜんぜん知らない。担当者に責任を持たせ、任せているからです。人間は一人では何もできないから責任を共有して役割を分担しなければいけない。でも、経営者は、時代を読み、社会情勢をとらえ、企業経営の全体を見据えて、総合的判断を下さなければいけません」

 こう語る荒木さん。「ベルシャイン伊那店の開店は、一応それができたかなといえる数少ない経験ですね」と笑った。(続く)

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